セクシュアルマイノリティ、LGBTQなど性に関する呼び方にはいろいろありますが、ゲイも同性愛の性に関する呼び名の1つです。当たり前に浸透している「ゲイ」という言葉ですが、そもそも「ゲイ」とは何でしょうか。「ゲイ」に関する歴史は長く、国によってはゲイであることが重たい罰則の対象になるようなところもあります。
時代は進化していて、これからの時代はゲイ1人ひとりの「創造力」が大切です。ゲイの歴史についての解説とこれからのゲイの生き方について考えてみましょう。
Contents
ゲイとはどのようなセクシャリティを言うのか
ゲイとは、自分自身を男性だと自認して、恋愛感情や性的な魅力を感じる相手が男性であるセクシャリティになります。海外では男女関係なく同性愛のことをゲイと呼んでいる国もあります。
自分自身のセクシャリティをどのように考えているのかについては「性自認」、どの性を好きになるかについては「性的指向」と言いますが、これらの用語を使って性を説明するときは性自認が男性であり、性的指向が男性に向いているということもできます。
意外と知られていませんが、ゲイの原義は「お気楽」「しあわせ」「明るく楽しく」「いい気分」などポジティブな意味合いが強い言葉です。
ゲイという言葉が同性愛や性的指向を指すものとして用いられるようになったのは、19世紀後半になってからです。20世紀に入ってからは次第に一般的に使用されるようになり、20世紀の終わりごろまではゲイという言葉は同性間の関係に関心を持っていた人々を表していました。
ゲイとオネエの違い
よく似た言葉にオネエという言葉がありますが、これはゲイとは違う言葉になります。ゲイは男性が好きなセクシュアリティを指していますが、それ以外の意味はありません。
ゲイと言うセクシュアリティに性自認と性的指向以外の観点はありません。
たとえば、テレビで脚光を浴びたオネエタレントに「マツコ・デラックスさん」と「はるな愛さん」がいますが、二人ともテレビではオネエキャラと呼ばれています。しかし、ふたりの間には大きな違いがあります。
マツコさんはゲイで女装をしていますが体は男性です。心も自分は男性と意識しています。はるなさんは女装をしているという点ではマツコさんと同じですが、はるな愛さんは自分を女性と認識しています。
はるな愛さんは女性になりたくて、実際に手術もして体も女性になっています。同じように男性が好きでもマツコさんはゲイ、はるなさんは性同一性障害でまったく異なるセクシュアリティなのです。
オネエの定義は曖昧で、女装していてセンスがあって物事をズバズバ言うような人がオネエと言われることもあります。
しかし、マツコさんとはるなさんがオネエタレントで一括りされているのに、実際にはまったく違うセクシャアリティであることを考えると、オネエというカテゴリーで一括りにしてしまっている現代に違和感があります。
ホモとゲイの違い
ゲイに近い言葉にホモという言葉があります。ホモは同性愛者の英語訳のホモセクシュアルからきていて、同性愛者の男性に向けて使われる用語として、日本だけでなく海外でも広く使用されてきました。
ホモセクシュアルという言葉が生まれたのは、1868年のドイツのとあるパンプレットと手紙で、そこに記載されていた英語を訳して、ホモセクシュアルという用語が生まれたと言われています。
それ以前、ホモセクシュアルは男子や女子など同じ性別の状態を指して使用されていましたが、時代と共にホモセクシュアルはセクシャアリティを表す言葉として使用されるようになりました。
日本でいつからホモという言葉が使われるようになったかは定かではないものの、1965年には同性愛者向けの雑誌でホモという言葉が使われていたことから、これ以前にはすでにホモが定着していたと考えられます。
ここまで見ると、ゲイもホモも同じようなセクシャアリティを表す言葉であることがわかりますが、どのような違いがあるのでしょうか。
ゲイとホモの違いは、差別的な意味合いが含まれるかどうかです。
ホモセクシュアルやホモの呼び方には侮辱的な意味合いが含まれていますが、これはホモセクシュアルが「心の病」として認識されていたことが理由としてあります。ホモという言葉に差別的な意味合いがあることから違和感を覚えたメディアが、ホモの代わりにゲイを使うようになりました。ゲイにはポジティブな意味合いがあるため、ホモと違って差別的な要素は含んでいません。
以上のことから、同性愛者の男性に対してゲイと呼ぶのは問題ありませんが、ホモは差別的な用語になってしまうので口に出さないように気を付ける必要があります。
ゲイとバイの違い
バイとはバイセクシュアルの略語で、2種類の恋愛感情や性的欲求を感じる人を指す言葉になります。
ゲイは自分自身が男性であることを自認して恋愛対象は男性ですが、バイは自分自身が男性であることを自認して恋愛対象は男性と女性になります。
ちなみに、バイセクシュアルと混同されやすい言葉に「パンセクシュアル」があります。
パンセクシュアルは男性と女性のどちらでも愛せるという認識を持っているのに対して、パンセクシュアルは性別を気にしない認識を持つ人を指す用語になります。
パンセクシュアルは海外では広く使われていましたが、日本では最近になってようやく使われるようになりました。パンセクシュアルの意味を知らない人は多いことから、理解されにくいという現状があります。
ちなみに自身が女性であることを自認して、女性を好きになるマイノリティを「レズビアン」と呼んでいますが、自身が女性であることを自認して、男性も女性も恋愛対象になる場合は男性の場合と同じくバイセクシュアルになります。
性表現とは?
最近になって耳にする機会が増えた用語に「性表現」があります。
たとえば、身体的な特徴・性自認が男性で、性的指向は相手の性に関係がないパンセクシュアルの人がいるとします。会話での一人称が「俺」で、メンズファッションで身を包んでいるなら「性表現が男性のパンセクシュアル男性」になります。
ゲイであることを公表して体が男という表現を多用しつつも、自分自身を女装家と言い喋り方も女性のマツコ・デラックスさんは「性表現が女性のゲイ男性」になります。
性表現と深く関わっているのがトランスジェンダーです。トランスジェンダーと言えばLGBTのTに該当する呼び方ですが、トランスジェンダーは大きく分けて以下の3つの区分に分けることができます。
- 性自認と割り当てられた性が異なっている状態
- 身体的性と性自認が一致してないことに対して、嫌悪感や違和感を持つ状態
- 性自認と身体的性が一致している状態で、それとは異なる服装を身にまとう状態
これらをすべて包括しているのがトランスジェンダーであり、見た目や言動で表す性が性表現です。服装やメイクの仕方なども性表現の一部になります。性表現は「このような性としてふるまいたい」と言った主観的なものであり、簡単に説明すると自分自身がどんな性を表現するかと言った要素です。
SOGI(ソジ)とは?
セクシュアルマイノリティの呼び方として、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字を取ったLGBTが有名ですが、最近はSOGIという考え方が国連を中心に広まりつつあります。
SOGIとは、Sexual Orientation and Gender Identityの略で、日本語で表現するなら「性的指向と性自認」になります。
LGBTという言葉が広まったことによってセクシュアルマイノリティの存在が世に広まりましたが、その一方でレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーとそれ以外を線引きしてしまう欠点がありました。
SOGIという言葉を用いることによって自分の好きになる性はどのようなものか、自分の性をどのように認識しているのか、と言ったように性にまつわるすべての人に関係することが分かります。
ここで注意しないといけないのは、LGBTとSOGIを混同している人もいますが、LGBTは身体の特徴を表す言葉であるのに対して、SOGIはすべての人の属性を表している点です。
ゲームでたとえるなら、SOGIがすべてのキャラクターが持つタイプなら、LGBTは氷タイプ、草タイプ、光タイプと言った個別のものを表す用語になります。性はすべての人に関係するものなので、他人ごとにしない概念としてSOGIが浸透しました。
SOGIハラとは?ゲイとハラスメント
近年、日本においてSOGIハラという言葉が話題になっています。
SOGIハラとは性的指向・性自認に関連して、差別的な言動や嘲笑、いじめや暴力などの精神的・肉体的な嫌がらせをすることや望まない性別での生活強要、不当な異動や解雇を行うことです。
他人が本人の同意なく性的指向や性自認を他の人に洩らす「アウティング」についてもSOGIハラにあたります。
たとえば、会社の忘年会などでLGBTの話題になったときに「男のくせに」「女のくせに」と言った話しを無意識にしている人がいますが、悪気がなかったとしても、性的指向や性自認のマイノリティにとっては苦痛に感じてしまうものです。
SOGIハラを特に受けやすいのはトランスジェンダーです。ゲイは見た目が男性であることからカミングアウトしなければ、他の人がゲイであることに確信を持つことはなかなかできません。レズビアンも同じように見た目が女性であるため、女性が好きだとカミングアウトしないと周囲にレズビアンだと確信されることはないでしょう。
しかし、トランスジェンダーは男性から女性に、女性から男性に見た目が変化するため、カミングアウトしなくても周囲が違和感を覚えやすく、悪意を持ったSOGIハラを受けやすくなっています。
同性愛はキリスト教により禁止された
「キリスト教は同性愛を受け入れない」と言われるように、キリスト教は同性愛者差別をけん引してきた宗教の1つです。キリスト教の影響を受けてきた欧米諸国において、伝統的に同性愛者は聖書において指弾される性的逸脱であり宗教上の罪とされてきました。
そもそも聖書には性的マイノリティについてどのように記載されているのでしょうか。
キリスト教における聖書は神であり、私たち人間を「神が創造した尊厳ある尊い存在」として見ています。神の創造の完成に向かって歩く途上のような段階であり、人間の失敗や過ちは受け入れられ、教えられ、整えられて完成していくのが人間だと解釈されます。
そして神は人間を創造した際に、結婚した男女だけが性的関係を持つように取り決めました。同性とであれ異性とであれ、結婚関係外の性行為を非としており、これにはオーラルセックスやアナルセックスなども含まれています。
聖書は同性愛行為を非としていますが、同性愛者を憎むことや偏見の目で見ることは容認していません。クリスチャンは同性愛者も含めて、あらゆる人を敬いなさいとしています。つまり、同性愛そのものは禁止していますが、そのような人が周囲にいても偏見の目を持ってはいけないと聖書には記載されています。
その一方で同性愛者に対しては「自分の体に支配されてはならない。間違った性行為に対する欲望をすべて断ち切るように」と言及しています。欲望を断ち切るためには、自分の思考をコントロールして思考を切り替えるように、つまり同性愛を自分の考え方を変えて、改善するように記載されています。
旧約聖書でも「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは忌み嫌うべきものだ」と教えられています。
キリスト教徒は世界総人口数の約33%にあたり、世界の3人に1人はキリスト教徒です。キリスト教徒の教えは聖書であり、その聖書に同性愛が忌み嫌うべきものだと記載されていることもあり、古くからキリスト教は同性愛を禁止してきました。
1つの宗教が同性愛の歴史に大きな影響を与えています。
近年はキリスト教徒も同性愛を受け入れる風潮
同じキリスト教徒でも信仰の深さが人によって大きく変わるように、同性愛に対する見方についても人によって大きく異なります。
キリスト教は同性愛を禁止しているものの、同性愛者に対して不当な扱いをしてはいけないとされています。その論理に沿って考えると、同性愛者に対する差別や偏見は、宗教の観点からも本来はあってはなりません。しかし、欧米諸国においても、一部では同性愛に対して宗教的観点、道徳、論理を主張する立場から問題という意見も根強くあります。
このようにキリスト教徒によって同性愛に対する見解が変わるのは、キリスト教の中でも同性愛者に対して様々な見解があるためです。
たとえば、結婚に対してキリスト教では「生命の創出と繁栄、保護」や「一組の男女間で結ばれる契約」という理由をもたしています。そのため、結婚は健康、教育、富を維持する制度であり、同性愛者の結婚の反対を宣言しているというものです。
一方でカトリック教会の公式の教えとしては「同性愛行為に及べば宗教上の罪となるが、同性愛の欲求を持っているだけでは罪にならず、むしろ尊重すべき」というものもあります。
同性愛者に対しての人権を容認するかどうかという二者択一の見解だけでなく、教会として同性愛を禁止するところもあれば、同性愛に対する迫害、差別について認めないという教えもあります。
キリスト教よりも同性愛者に厳しいイスラム教
同じ同性愛を禁止している宗教でも、キリスト教よりイスラム教の方が同性愛に対する風当たりは厳しいです。イスラム教とは唯一絶対の神を信仰して、神が最後の預言者を通じて人々に下したとさえるクルアーンあるいはコーランの教えを信じて従う神教です。
ユダヤ教やキリスト教の影響を受けた神教で、偶像崇拝を徹底的に排除して神への奉仕を重んじてきました。イスラム教では、同性愛者は神の道に反した行いをしている墜落した者たちとして扱われています。
キリスト教では同性愛者が死罪になることはほとんどありませんが、イスラム教を信仰している国によっては同性愛という理由だけで死刑になる国もあるほどです。たとえば、シーア派の法学者によって統治されているイランでは、刑法でソドミー罪が定められていますが、同性同士のセックスを行ったと確認されると死刑に処されます。
イスラム教は神が人間を男と女として創造し、それぞれにふさわしい規範を与えたとされているため、男の体を持って生まれたのに女という自覚を持つトランスジェンダーという概念は存在していません。
しかし、イスラム教徒もLGBT平等を認めるべきと考えている人もいれば、イスラム教徒はLGBTを認めなくてもいいけど理解はすべきと考える人、イスラム教徒がLGBTを理解する必要はないという人もいます。
イスラム教徒の同性愛者に対する考えは国による違いも大きく、イランのように同性愛が死刑になるような排泄的な国もあれば、イスラム教徒が多くても現代の流れを汲んで同性愛を認める国もあります。
日本で同性愛が禁止されたのはキリスト教が深く関係している
「日本は同性愛者に対して厳しい」「日本は同性愛者に対して排泄的」など、同性愛に対して寛容な社会ではないと考える人も多いでしょう。
実際に、職場や学校で身近にいるLGBTがいじめられているのを見たり、不遇な扱いをされていたり、LGBTが生きにくい国だと感じたことがある人もいるかもしれません。
しかし、日本の歴史を見ると同性愛者に対しては他の国に比べて非常に寛容的で、同性愛者が当たり前に生活しているような時代がありました。日本で同性愛者に対して迫害が少ないのは、日本が早くから同性愛者に対して寛容な仏教を信仰していたことが理由としてあります。
仏教では淫らで邪な愛欲に支配されることは禁止されていますが、相手や他の人に迷惑をかけないなら同性愛であっても問題はないとされています。淫らで邪な愛欲というのは、ストーカーや不倫のような関係であり、健全で良好な愛情であれば異性でも同性でも問題なく愛し合うことができます。
しかし、日本でも現代社会においては、LGBTに対する偏見や差別があります。
これは江戸時代の鎖国までは堂々と同性愛が生活できる環境でしたが、開国してからキリスト教や同性愛者を嫌う欧州の文化が入ってきて、それに感化されて急速に同性愛者に対して冷たい目が向けられるようになりました。
ついには明治5年にアナルセックスを禁止する法律が制定されて、違反したものは懲役刑に罰せられることになりました。ただし同性愛が法律によって禁止された期間は短く、1882年には消滅しました。
その後は少しずつ同性愛に対して理解する風潮になりましたが、キリスト教や欧州が同性愛を忌み嫌っていることもあり、以前に比べるとキリスト教や欧州の考え方が正しいと思う日本人が増えたため、同性愛に対する差別や偏見が完全に消えることはありませんでした。
宗教、土地柄、歴史などを見ても、日本には同性愛を否定する理由がありません。本来であれば、他の国よりもLGBTフレンドリーになりやすい下地があります。
それでも他の国に比べてLGBTへの理解が遅れているのは、日本が他人の顔色をうかがい、足並みをそろえようとしていることが一因だと思います。世界的にLGBTを支援しようという風潮になったのは最近になってからであり、それまではLGBTに対して排泄的な国が多かったため、日本はLGBTに対する風潮の変化に対応できておらず、一歩遅れて進んでいるという印象が拭えません。
日本はゲイではなく「男色文化」だった
日本には昔から同性愛に根付いた文化がありました。「男色文化」です。
男色とは男性同士の恋愛やセックスを指す言葉で、徳川将軍が統治していた江戸時代には都市部を中心に寺院や武家社会、歌舞伎社会の世界の男性の間で男色行為が当たり前に行われていました。
男性同士の恋愛は男色が一般的に使用されていましたが、他にも「衆道」「男道」「美道」「秘道」などの呼び方があります。男性同士の恋愛を表す言葉が多いことから分かるように、男性同士の恋愛やセックスが日常生活に浸透していました。
男色文化の始まりは古代まで遡る
日本では男色文化の始まりが古代とされていて、日本書紀には日本最古の男色に関する記述があります。
奈良時代や平安時代になると仏教の広がりとともに、寺院でも男色がかなり広がったとされています。奈良時代には貴族の子弟が寺院に入り、僧の身の回りの世話をすることが制度として成立しました。
男色の対象とされていた少年たちは、もともと稚児(ちご)としてお寺に入った者たちです。髪の毛がある稚児は垂髪と呼ばれ、こうした稚児を溺愛する風習は奈良時代から仏教界に広がったとされています。
世界的にはキリスト教やイスラム教が同性愛に対して厳しい姿勢を示していましたが、日本においてはまったく逆で、同性愛が違和感なく文化に根付いていたことが分かります。
位の高い稚児は観音菩薩の化身とされて、僧侶は位の高い稚児との性交が許されました。
平安時代になると男色の流行が公家にも及び、その片鱗は複数の男色関係を明言している藤原頼長の日記にも記載されています。また源義経や弁慶、佐藤継信兄弟との主従関係においても制度的な片鱗を見出している説もあります。
平安末期にも武士社会は台頭していましたが、中世室町時代においては武士の間で男色が盛んになりました。武士との男色行為については衆道と呼ばれています。3代目将軍の足利義満は能役者の世阿弥が少年だったころに溺愛したという文研も残っています。
この2人の男色関係が芸能の発展に大きな影響を与えたと言われていますが、6代目将軍の足利義教についても赤村という武士を愛して領地を増やしていくなど、さまざまなところで男色文化が根付いていったことが分かります。
この時代に成立した能や狂言には男色が非常に多く取り入れられていますが、その名残は現在の芸能文化にも引き継がれています。
また日本の仏教では古くから女犯は罪とされていましたが、仏門に入れば女人との交わりを絶って修行をするのが僧侶という考えがありました。
男色で知られる歴史の有名人
歴史系のBLマンガを目にする機会も多いですが、これらは空想で作れたものばかりではなく、実際に男色を行っていたとされる歴史上の有名人がモデルになっているケースも多いです。それでは、男色で知られる歴史の有名人について何人か紹介します。
松尾芭蕉
俳句家の松尾芭蕉は弟子と一緒に旅に出る機会が多かったですが、その弟子と恋仲の関係にあったと言われています。松尾芭蕉と言えば奥の細道が有名ですが、「笈の小文」という紀行文には愛弟子との旅行について記載されています。
「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」といったロマンチックな句を詠んでいることからも、弟子との関係の深さがうかがい知れます。
織田信長
織田信長は天下統一の一歩手前にありながら、家臣の明智光秀に暗殺されてしまった本能寺の変で知られる将軍です。
織田信長も男色経験者で、有名な相手は森蘭丸です。小さいころから容姿端麗だったこともあり、織田信長のお気に入りだったと言われています。信頼を寄せていて、自分の大切な刀を預けて身の回りの世話をさせることもありました。
徳川家康
天下統一を果たして徳川幕府の基礎を作った有名人ですが、徳川家康も男色家として知られる有名人です。
有名な相手は井伊直正という有名な家臣で、鷹狩りの最中に美少年だった井伊直正に一目ぼれしたというエピソードは広く知られています。井伊直正は若くして徳川四天王に出世しました。
武田信玄
身につける武具をすべて朱色で統一して、赤備えとして恐れられた実力ナンバーワンと名高い武田信玄も男色家の1人に数えられます。
有名な相手は高坂昌信で、幼いころは絶世の美男子と言われていました。また武田信玄が他の男性と男色関係になったことを知った高坂昌信が激怒したというエピソードも有名です。
このときに武田信玄は高坂昌信にラブレターを送っています。
伊達政宗
独眼竜と称される伊達政宗は戦国の歴史の中でも末期の方に出てくる人物ですが、もう少し早く生まれていたら歴史が大きく変わっていたかもしれないと言われる評価が高い武将です。
伊達政宗も男色家の1人であり、有名な相手は二代目片倉小十郎を名乗っていた片倉重長です。
この二人の逸話としてあるのが大阪の陣出陣前のできごとで、重長にとって初陣となる大阪の陣で片倉の名前を汚さないように先鋒となることを望んでいました。
出陣の前に伊達政宗にその旨を伝えた際に濃厚なキスをしたと言われています。
そもそも戦国武将に男色家が多いのはどうして?
戦国武将の多くは男色家であり、男色をしていない武将の方が少ないくらいです。ここで一つの疑問が生まれます。
「なぜ、戦国武将は男色行為を好んでいたんだろう?」
戦国武将はその国のトップに君臨する存在であり、女性に困ることはなかったはずです。それでも男色を好んでいたのは、「女性は戦において不浄な存在と考えられていた」ことが理由としてあります。
女性は戦に参加することができず、女性がいるだけで悪とされていた時代でした。戦に勝つことがすべての世界であったことから、女性の立場は今では信じられないくらいに低かったのです。
現在はLGBTが不遇な扱いを受けていると感じる人もいるかもしれませんが、それ以上に女性は不遇な扱いを受けていました。
このような背景もあって容姿端麗な男性を好む傾向にあったわけですが、ゲイと違っているのは男色家と言っても女性を相手にしている武将が大半であることです。この場合、現代の定義で言えば、バイセクシュアルになりますが、単純に男が好きというよりも、武士の嗜みとして男色行為が行われていたと言われます。
また肉体的だけでなく精神的な結びつきを特に重視されたと言われており、男色は絶対服従の関係や絆を作るために欠かせない儀式という見解も多いです。
もちろん、多くの武士たちが妻子を残して戦に出かけた当時、女性のいない環境に置かれることも多く、男性を性的対象に見るしかなかった、というのも想像に難しくないでしょう。
さらに武将に寵愛された子どもは一目置かれるようになり、他の子どもに比べて出世しやすかったことから、武将に気に入られようとする子どもも多くいました。
ちなみにバイセクシュアルな男色行為が多かったのは徳川時代からで、それより前は寺院や戦争などで女性が不足することから男色が容認されていたとされています。
日本の男色の歴史はかなり長いですが、男色が行われていた理由は時代ごとに若干異なっています。
徳川時代には男女比率が均衡していた環境であったにも関わらず、男色が発展していたことが他の時代と比べる特異点と言えます。
身分の高い人達が当たり前に男色行為をしていたことから、それに対して疑問を持つ者も少なく、当たり前に同性愛が受け入れられていました。世界的に見ても日本の男色文化はかなり珍しいものです。
江戸時代の男色文化
日本の伝統文化として知られる歌舞伎は、江戸時代のエンターテインメントとして人気を集めました。
出雲阿国(いずものおくに)で知られる美女が男装をして踊るかぶき踊りがルーツと言われていますが、阿国人気が高まるとそれを真似する男装たちが踊る女歌舞伎が流行りました。幕府によって風紀が乱れると女歌舞伎は上演を禁じられた歴史があります。
女歌舞伎が禁止された後に生まれたのが前髪を残した少年たちが女装して踊る若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)で、女装の美少年たちが踊る姿の魅力に観客はすっかり虜となり、やがて若衆歌舞伎で踊っている少年たちは男色の対象と見られるようになりました。
この頃から売春するものが増えていきましたが、風紀が乱れるという理由から若衆歌舞伎も禁止になりました。
若衆歌舞伎は禁じられたものの、歌舞伎役者の女形を目指す少年による売春は変わらず行われています。これは男性に抱かれることによって女性らしさを学ぶことができるとして、女形修行の一つとして考えられました。
舞台に出る前の修行中の少年は陰間(かげま)と呼ばれていましたが、これは売春を商売にする少年の呼び名「陰間」につながっていきました。
江戸には8か所に約225人の陰間がいたとされていますが、それだけの陰間がいたことから「江戸時代には同性愛者がたくさんいたのか」という疑問が出てくると思います。
江戸時代における男色というのは同性愛者に限ったものではなく、趣味人の嗜みの一つとして考えられていました。現代で言うなら、ノンケが女装をしたニューハーフヘルスに行くのと同じような感覚かもしれません。色道(しきどう)を追求するなら、女色も男色もどちらも味わうべきであるという考えがありました。
陰間は少年版遊女という感覚を持つかもしれませんが、現役として働くことができるのは12~20歳くらいまでで、女性が15~27歳くらいであるのに対して、期間はかなり短くなっています。
現代で言えば中学生や高校生が陰間で稼げるピークと考えることができます。
陰間になるためにはさまざまな修行が必要でした。たとえば、ザクロの皮で作った特製の粉を使った全身を磨いて美しい肌を手に入れ、鼻筋を高くするために矯正していたともいわれています。
またアナルセックスをするために、肛門が傷つかないように恐怖心を持たないように指や棒薬などを使って練習するなどを10歳の頃から始めていました。
陰間を買いに来ていたのは僧侶が多く、江戸時代後期に書かれた風俗百科事典には「男性の客は僧侶を専らとす」と言った記載があります。
男色文化の衰退
江戸時代の男色文化全盛から幕末・明治にかけては男色文化が衰退します。江戸時代から武家の作法と男色が融合したものを若衆道と呼ぶようになりましたが、略されて衆道と言うようになりました。
江戸時代の前期は男色が大流行しましたが、江戸時代中期になると美少年をめぐった暴力事件や客との間にトラブルが起こるなど、風紀を乱すものとして問題視されるようになり、男色行為を禁止する藩主も現れました。
1842年には陰間茶屋が禁止になり、公然に男色行為が行われることはなくなりましたが、男色をテーマにしている小説や春画作品などは幕末まで続きました。
明治維新頃から文明開化と共に同性愛を悪とする外国の文化が入ってきたことから、急速に同性愛者が異端児扱いされるようになり、現代の同性愛者に対する差別や偏見のような感覚を持つ者が増えたとされています。
この頃は海外の影響を強く受けすぎている面もあり、明治時代には同性愛が法律で禁止されるようなこともありましたが、明治後期になると学生寮・軍隊・刑務所など男性だけの集団生活の機会が増えたことによって同性愛行為が再燃しました。
同性愛者や男色行為などが、西洋人の非難の対象になったことから従来の男色文化は減退しましたが、大正時代になると男色は秘密クラブや男娼のような形に変えて各地で復活しました。
ハッテン場もあり、江戸川乱歩の一寸法師には深夜の浅草公園にいるゲイの姿が生々しいと記載されています。ハッテン場の規模はどんどん大きくなり、その規模も江戸自体の規模に匹敵するほどだったと言われていますが、女色の上位に置かれることはなく、差別や偏見も完全に消えることはありませんでした。
日本の長い歴史を振り返ってみると江戸時代中期頃から同性愛に対する風向きが変わったように感じますが、その原因は日本の文化というよりも、海外の文化の影響が断然大きいと言えるでしょう。
欧米の影響でタブーとなった「男色文化」は、日本でゲイという概念に変化した
近年、世界各国では人権意識の高まりと共に同性婚法制化に向けた動きが活発化していることからも分かるように、同性愛を嫌っていた海外の文化も変わりつつます。
日本の男色文化は同性愛だけでなく嗜好によるものも含まれるため、現代の同性愛許容とは少し違った概念ではあるものの、日本で当たり前に男色が行われていた時代に回帰しようとしていると考えることもできます。
しかし、男色文化という言葉が使われることはなく、現代の日本ではゲイという概念に変化しています。日本の男色文化がタブー視されてから、ゲイと言う概念を持つようになるまでの変遷を海外の同性愛の歴史と共に振り返ってみたいと思います。
犯罪としての同性愛
19~20世紀は海外の文化が日本の男色文化に大きな影響を与えましたが、そのきっかけとなった海外の文化のうちドイツの同性愛という言葉や概念は無視できません。
19世紀以前のドイツにおける同性愛はソドミーという言葉が使われていましたが、ソドミーという言葉は1553年にカール5世によって交付された神聖ローマ帝国の第116条の中にある「人間が動物と、男が男と、女が女とみだらな行為をしたら死刑に処す」と記載される条項があり、これがソドミーを取り締まる法律になっています。
つまり、ソドミーとは自然に反する卑猥行為を指す言葉で、19世紀にホモセクシュアルという言葉が登場するまで同性愛に近い意味を表す言葉がありませんでした。
日本では男色をはじめ、同性愛を指す言葉が数多くあったことから、ドイツと日本では同性愛に対する受け止め方が大きく異なっていたことが分かります。
ホモセクシュアルという言葉は、ドイツ系のハンガリー作家カーロイ・マリア・ケルトベニが作った言葉ですが、彼は1869年に恐喝や自殺を誘発するとして同性愛を罰するプロイセン刑法の削除を求めるパンプレットを匿名で出版して、その中で独自の性理論を表現するために作った言葉です。
彼の理論については広く受け入れられることがなかったものの、ホモセクシュアルという言葉はゲイ擁護運動家の間で広まってドイツだけでなく西洋に定着しました。
同性愛という概念においては19世紀以降の性科学の主流派に対して、決定的な影響力を持っていたのはケルトベニよりも彼と情報交換のために文通をしていたドイツの法学者のカール・ハインリヒでした。
彼が同性愛者に対して「女性的であり、男性と女性の中間に位置する第三の性」であるという考え方を提唱して、ドイツ学会において同性を愛することは生まれつきの自然なことだと訴えました。
1830年の頃ですが、西洋は当たり前に同性愛を禁止しているというイメージを持つ人は多いですが、活動家たちが何度となく声を挙げて第三の性を認めるように行動を起こしていました。しかし、彼らの頑張りもむなしく、1871年のドイツ帝国の建国に伴って、ドイツ刑法典刑法に引き継がれることになります。
帝国主義の時代であったことも重なり、ドイツ帝国の勢力拡大に伴ってさまざまな国が同性愛行為の違法化を余儀なくされます。
しかし、ゲイ擁護運動はリヒャルト・フォン・クラフトやジークムント・フロイトによって引き継がれることになり、同性愛者は病気であり、懲罰ではなく治療を持って取り扱うべきだと提言しました。さらにフロイトは、同性愛者をそうでない人間とは違う種類の集団に区別することは反対すると声を挙げており、同性愛の非犯罪化に尽力します。
現代のようにSNSが普及していて、個人が声を挙げられる時代であれば共鳴する声が多かったかもしれませんが、当時は帝国と言う大きな組織に立ち向かうことができず、このような活動や運動、考え方などが日本に持ち込まれることはなく、同性愛=悪という文化だけが入ってきました。
日本における同性愛の取り締まりが厳しくなかった理由
19~20世紀にかけて海外では同性愛を巡って大体数の反対派と、少数の擁護派に分かれていましたが、擁護派が声を挙げたところで同性愛者に対する嫌悪が収まることはなく、国によっては引き続き厳しい刑罰が続きました。
日本においても、日本国刑法唯一のソドミー法である「鶏姦(けいかん)規定」が明治時代に成立して、同性間のセックスが法的に禁止されていました。
鶏姦規定は1872年に司法省によって立案された鶏姦条例に基づくものであり、翌年7月10日に施行された改定律令における鶏姦規定処罰に関する規定です。
この法律では「同性愛行為をした人間は、それが合意の上であっても懲役90日の処罰を受ける」と規定さえており、強姦については懲役10年という重たい犯罪であったことが分かります。
鶏姦という言葉はソドミーと同じであり、男性の同性愛者同士で行われる肛門性交を自然に反する卑猥行為である獣姦と同等に扱っています。
ソドミーと同じであるという点からも分かるように、鶏姦規定は西洋の文化に大きな影響を受けています。
鶏姦規定が成立したきっかけになったのは、白川県(熊本県が明治時代に4年間だけ白川県だった)から「県下の学校において男色が広まっていて学生の勤勉に差支えがあるが、それを取り締まる法律がない」という伺いが始まりになっています。
つまり、学校内での男色行為を減らすために法的に取り締まれるようにして欲しいという訴えが採用された形です。
このような形で生まれた鶏姦規定ですが、それを支えるための基盤は脆弱なものであったと考えられます。被害者が出てくる強姦は犯罪という概念が成立しますが、合意に基づいた同性愛行為をどんな風に取り締まるのか、という根本的な問題が存在しました。
つまり、社会的・文化的に見て同性愛を異常な行為と見なすという共通認識が当時の日本にはそこまでなく、男色文化を知っている人も多かったことから、同性愛者を犯罪扱いにしてしまうのはどうか、と考える人が多かったわけです。
法律によって禁止されたものの、その期間は1876年~1881年と短く、鶏姦で処罰された件数も約20件とかなり少なくなっています。この数が男色行為をしていた人の数ではなく、多くは刑務所など犯罪を行っていた者の鶏姦が対象になっています。
1882年には鶏姦規定が廃止されることになりますが、そのきっかけとなったのは明治政府から法律顧問として委嘱されていたギュスターヴ・エミール・ボアソナードが母国フランスの刑法を模範とする場合、双方合意の同性愛行為を法律で禁止すべきではないと主張したためです。
こうして同性愛行為が法的に禁止されることはなくなったのですが、ここでもギュスターヴ・エミール・ボアソナードによる西洋の文化の影響が否めません。
しかし、当時のヨーロッパにおいて多くの国が同性愛への処罰を強める方向に動いていて、フランスだけが同性愛者を処罰する法律がありませんでした。他の国の人が法律顧問をしていれば、鶏姦規定が廃止されるまでの期間が延び、さらに厳罰化されていたかもしれません。
日本の意志がないように感じるかもしれませんが、日本という風土や慣習を考えれば同性愛に対する嫌悪感は、そもそも少ないわけです。その中で海外と足並みをそろえなければならないという状況にあったことから、簡単に海外の文化に影響を受けてしまっているようにも見えます。
日本にとっては、これまで長く続いてきた当たり前の男色文化に対し、いきなりやってきた西洋人に「それはおかしい」と散々と否定されたことで、どう対応したらいいのか分からず、とりあえず西洋の文化に沿って対応してみたものの、結局は日本人の気質に合わなかったとイメージすると分かりやすいかもしれません。
鶏姦規定は法律が適用された期間こそ長くないものの、国が法的に同性愛者を罰していたという事実を見ると重たいものです。
また鶏姦規定が定められたときに、外国ほど厳しい刑罰にできなかったのは、男色と同性愛者のボーダーラインが曖昧だったことも理由としてあります。
特に戦国時代における男色というのは性欲や恋愛というよりも、家来の服従や男性らしさをアピールするための要素が大きく、男色をするものは男らしいというイメージも定着していました。
完全に同性愛者を否定することは、男色を否定することにもなり、歴史を否定することにもなります。このような日本独自の背景も同性愛に対する西洋との価値観の違いにつながっています。
日本のゲイ文化
20世紀の中頃から世界的に同性愛に対する対応が大きく変わり始めます。同性愛者への差別や偏見が厳しかった欧米においても、独自のゲイ文化が発展していきます。
たとえば、生バンドの代わりにレコードを手がけている「ディスコ」が本格的な発展を遂げたのは1960年以降のアメリカのニューヨークのゲイシーンです。
客層はゲイの黒人などのマイノリティが主流でしたが、ゲイ男性のためのハッテン場としての役割や、黒人音楽のハッテン場の2つの面を持っていました。ニューヨークは進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイが集まっていました。
ゲイが社会に認知されるようになると社会の多方面に進出すると同時に、ディスコ音楽が表舞台に登場して、ゲイ以外の人にも聞かれるようになります。
1970年代にはアメリカのテレビ番組のソウル・トレインが人気を博し、1977年に公開された映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」の影響でディスコ・ブームが世界的に広がりました。
日本でもアメリカのゲイシーンの影響を受けて、1970年ごろからゲイディスコがオープンし始めました。
それより前にもダンススペースがあるゲイバーもありましたが、日本においてもゲイディスコは踊りを楽しむだけでなく、出会いやハッテン場として使用されるようになりました。日本では新宿あたりからゲイ文化が広がっていきましたが、現在においても新宿2丁目にはゲイのお店が多く集まっています。
バブル期になると日本発の一般向けクラブでゲイナイトが開催されますが、これはニューヨークのクラブカルチャーを持ち込んで開催されたものです。1982年には日本初のゲイポルノが公開され、ゲイを題材とした小説などが増えました。
1991年には1000人規模のゲイナイトが開催されて、1995年7月まで毎週第1日曜日に開催されました。開催日には新宿2丁目から芝浦直行のバスが出るほどで、東京から派生して大阪や名古屋でも大規模なゲイナイトが開催されるようになりました。
また、当時のゲイの服装は異性愛者よりも数年流行が早いと言われていて、男性を強調した男性らしい恰好や、90年代にモード系と言われたファッションなどのゲイもいましたが、いずれも数年後に異性愛者の中で流行するファッションになりました。
この頃から女装するニューハーフや女装家も増えていて、近年のニューハーフにおいてはヘテロ女と変わらない女装する人もいて、女性たちのファッションリーダーになっている人もいます。
このように男色文化→明治時代→ゲイ文化と同性愛の文化も変化していて、自由な同性愛の形が作られています。
江戸時代に流行った陰間についても、最近はゲイ・ニューハーフ風俗として形を変えて復活し、同性愛者だけでなくノンケの男性も新しい性の楽しみとして利用しています。
しかし、ゲイに対する偏見や差別はいまだに残っていて、自分がゲイであることから、会社や学校でいじめに遭い、それがきっかけで自ら命を絶つ人も多くいます。
男色が当たり前に行われていた頃は、同性愛に対する嫌悪がそもそも存在してなかったですが、西洋文化の影響で、同性愛への嫌悪が芽生え、それが完全に消失しないまま現代になっています。
ただし、20世紀の後半に比べると、21世紀の方がゲイやマイノリティに対する考え方は寛容的になっています。これはインターネットが普及したことにより情報が多様化して、個人が情報発信できるようになったこと、正しい情報を知れるようになったことも大きいです。
このような傾向は日本だけでなく、海外も同じような傾向をたどっています。その一方で同性愛に対して依然として厳しく接している国も存在していて、特に発展途上国や新興国などでは同性愛への根強い憎悪が残っています。
日本のゲイ文化の発展を見ても分かるように、国柄や風土によって同性愛への受け止め方は大きく異なります。