LGBTQ

日本における同性愛・LGBTの歴史とは?

近年はLGBTに関する情報が多くなり、昔に比べるとLGBTを含めて個性に寛容的な社会になりつつあります。国内・国外問わず、国や自治体の政策や雇用の分野で多様性やダイバーシティなどの単語も並ぶようになりました。

社会的マイノリティの立場にある人々に対して多様性を認め、メディアに取り上げられる機会も増えてきたことから社会的認知度も高まっています。同性愛についての考え方は、国、地域、団体、個人などによってさまざまです。

日本における同性愛は歴史が深く、今も昔も一定の割合でLGBTがいたこともわかります。

今回は日本における同性愛の歴史を紹介すると共に、どのようにして今のLGBTに対する社会が作り上げられてきたのか見ていきましょう。

同性愛の歴史は古い

日本における同性愛や男性同士の性行為についての記録は古代よりありますが、男性に比べると女性の同性愛に関する情報はかなり少ないのが特徴です。

時代によって同性愛に対しての捉え方はさまざまで、同性愛を制限する法律がなかった時代には公然と男性同士の付き合いや性行為が行われていました。

ただし、同性愛と言っても近くに性交の対象となる女性が簡単に見つからなかった状況において同性パートナーを見つけていたケースもあれば、女性のようなルックスの男性をパートナーにしていたなど、必ずしも同性愛が起因するものではありませんでした。

現代では男性同士の同性愛をLGBTやゲイと呼ばれることが多いですが、以前は「男色」と呼ばれていました。

同性愛の歴史を時代ごとに紹介

同性愛の歴史は奥が深く、簡単に語れるものではありません。ここでは同性愛の歴史について時代ごとに紹介していきます。

古代

日本における同性愛の歴史は長いと冒頭でお伝えしましたが、一体どれくらい古いのでしょうか。

日本の同性愛の最初の記録として残されているのが、日本書紀の神功皇后の項にある記述を挙げる例があります。直接的に同性愛について言及されているわけではありませんが、日本書紀に記載されていた以下の内容が同性愛について触れられているのではないか、と言われています。

「神官の小竹祝の病死を悲しんだ天野祝が後を追って、両人を合葬した阿豆那比(アヅナヒ)之罪のためであるという。そのため墓を開き、両者を別々の棺桶に納めて埋葬すると直ちに日が照りだした」という内容です。

ここに出てくる阿豆那比(アヅナヒ)が日本最古の「男色」と言われていますが、これに対して阿豆那比(アヅナヒ)は血縁関係のないものを一緒に埋葬したものではないかと言う解釈もあります。そのため、同性愛の起源とは言えない部分もありますが、長い歴史を考えるとこの時代から同性愛の概念があったと言う方が自然です。

奈良、平安時代

引用:稚児-Wikipedia

仏教が広まった奈良・平安時代においては、寺院を中心に男色が広まったと考えられています。奈良時代には貴族の子弟が寺院に入って、僧の身の回りをするなどが制度として確立されていました。

「男色」の対象とされた少年は稚児(ちご)を求愛する風習は奈良時代以来かなり広まっていき、稚児灌頂(ちごかんじょう)という儀式は観音菩薩の化身とされて僧侶は性交が許されました。「男色」を知る貴重な資料には平安時代に成立されたとされています。

奈良時代にはめぼしい「男色」の記録はないものの、万葉集には大伴家持らの男性に宛てられたとされる和歌が収められています。奈良時代の後期には孝謙天皇の皇太子に立てられている皇族や道祖王が、聖武天皇の喪中でありながら性行為を行った廃嫡に追い込まれた記録もあります。

平安末期、鎌倉時代

平安時代になると「男色」の流行が公家にも波及していますが、このことは複数の男色関係があったことが分かっている藤原頼長の日記にも記載されています。台記と呼ばれるもので、保元の乱前夜の摂関家や当時の故実を知るためのものですが、「男色」を嗜んでいたことも詳しく記載されており、当時の公家の性風俗を知る上で貴重な内容とされています。

また、源義経や弁慶、佐藤継信、佐藤忠信兄弟との主従関係についても制度的な片りんを見出しており、この頃にも流行していたことが証拠として残っています。稚児観音縁起にも「男色」を示すような記載が見つかっており、この頃は同性愛に関してさまざまな資料が残っています。

平安末期、鎌倉時代と言えば全国的に交通が栄えて、経済力を持った武士が出た頃であり現代に通じる部分もたくさんあります。同性愛はこの頃から一般的に知られていたものであり、他の国に比べるとかなり寛容されていたと言えます。

室町時代

引用:足利義満-Wikipedia

平安時代の末期には武士社会が拡大していましたが、中世室町時代には武士同市の「男色」が盛んになって主従関係の価値観と重ねられていました。この時代に成立した能や狂言は「男色」が多く取り入れられています。「菊慈童」「花月」「幻夢物語」「嵯峨物語」「鳥辺山物語」などの物語にも多く出てきます。

ちなみに室町時代の3代将軍の足利義満は、能役者の世阿弥が少年だったころに男色関係を築いており、これがきっかけとなって芸能に発展したともいわれています。さらに、6代目将軍の足利義教は赤村という武士に行為を持ち領土を増やしていった後に、そうした関係に対して嫌悪した赤松満祐に暗殺されたという歴史もあります。

同性愛は武士の間で珍しいものではなく、公家の中にも男色関係を築く者がたくさんいました。こうした背景もあって室町時代は同性愛に対して寛容的な風潮であり、芸能分野にも普及していったという歴史もあります。

戦国時代

引用:織田信長-Wikipedia

戦国時代も同性愛に対して厳しく罰するという風潮はなかったですが、1549年に来日したフランシスコ・ザビエルが日本人を称賛しながらも許すことができないことの1つに「男色」を挙げていました。

海外では同性愛は禁止という風潮が強く、日本の同性愛に対する感覚と、他の国の同性愛に対する感覚は大きく乖離しています。

フランシスコ・ザビエルを保護して布教を許した大内義隆は美少年を多く抱えており、フランシスコ・ザビエルが「男色」を批判したことに対して立腹して布教の許可は出しませんでした。

さらに、1579年に来日したイタリアのアレッサンドロ・ヴァリニャーノも男色には厳しい姿勢を示しており、「日本人は同性愛を重大なことだと考えていないため、若い衆たちは恋愛の対象が同性であっても隠そうとはせずに公言している」と記載しています。

1619年に来日したフランソワ・カロンについても、「貴族の中には僧侶と同じくらいに男色に汚れているものがいるが、これについて恥だと思う人はいない」と記載しています。

戦国時代は外国人との交流が盛んに行われるようになった時代でもありますが、日本の同性愛についての文化に対してネガティブな印象を持っている人が大半です。これは世界では同性愛が禁止されていることが理由としてありますが、独自の文化を築いていった日本人は特殊でした。

それを象徴するように戦国時代に執筆された「梧窓漫筆(ごそうまんぴつ)」には、戦国のときには「男色」を盛んに行うべきであり、それによって勇士が多く出ると記載されています。戦国大名が小姓を「男色」の対象にしたケースも非常に多く、織田信長と前田の例は特に有名です。

「男性」が中心だった戦国時代に興味を示す女性が増えていますが、このような女性のことを一般的に歴女と呼んでいます。歴女が戦国時代に興味を持つ理由として「男色」があり、女性向けに創作された男性同士の恋愛を描いたボーイズラブの漫画にも戦国時代の男色関係を示す内容が少なくありません。

また、現代に比べて男色関係が盛んだったこともあり、ボーイズラブファンが妄想で描くような世界がリアルに存在していました。歴史に名を残しているような武将の90%以上に男色の関係があったと言われているほどで、男色に興味を示さなかったのは豊臣秀吉くらいだったともいわれています。

戦国時代に男色が盛んになった理由として以下の3つの要因が考えられます。

・戦場に女性がおらず性的な相手が男性のみだった
・「男色」が出世のきっかけになる
・「男色」は崇高な趣味と捉えられていた

このように同性愛はポジティブなイメージとして捉えられており、現代よりも自由でオープンだったことが分かります。

江戸時代前期

引用:徳川家光-Wikipedia

戦国時代が終わって江戸時代に突入しても同性愛は当たり前に存在するものでした。男色に武家の作法が融合した衆道と呼ばれる言葉も生まれ、江戸時代の同性愛を象徴する言葉として現代に引き継がれています。

徳川将軍15代のうち7代は衆道関係にあったと言われており、その中でも3代目の家光と5代目の綱吉の衆道関係がよく知られています。家光は少年ばかりを愛して女性を近づけようとしなかったことから、乳母が心配して大奥ができたと言われています。

綱吉については多くの女性を抱えていましたが、江戸城に男色の間を設けて美貌の能役者や旗本の子弟子らとの関係の場にも使用しています。綱吉が囲った少年は「桐之間御番」と呼ばれていますが、その中でも特に容姿が優れている少年だけを集めて住まわせたのが「桐御殿」です。

江戸時代初期については衆道とは別に若衆歌舞伎に代表される売色化した新しい形の男色文化が開花しており、遊女ならぬ色若衆と呼ばれる少年たちが現れて少年を置いた陰間茶屋が繁盛しました。

陰間茶屋とは、もともと歌舞伎における女形の修行中の舞台に立つことがない少年を指していましたが、次第に男色目的に特化して独立した陰間茶屋が増えていきました。

このようなタイプの場所は室町時代からありましたが、江戸時代に流行して根付いた遊郭は京都や大阪、江戸にたくさん増えて集中しました。男色はタブー視されることなく、当時の町人文化にも好んで題材にされており、井原西鶴の好色一代男には主人公が一生のうちに交わった人数を赤裸々に記載しています。

その一方で、江戸時代初期になると家臣の衆道を厳しく取り締まる動きもみられるようになり、違反した家臣を追放に処すような動きもみられるようになりました。また、少年男色が盛んに行われていた若衆歌舞伎も禁止されるなど、少しずつ男色に対して厳しい目が向けられるようになりました。

江戸時代中期

江戸時代中期になると同性愛に対する一般の人々の目が変わってきます。

これは部下が君主への忠誠よりも男色相手との関係を大切にするようになったり、美少年を巡ってトラブルになったりする機会が増えたためです。風紀を乱すものとして問題視されるようになりますが、男色行為として違反した家臣を領内追放に処するようになるなど、以前にも増して男色に関するトラブルが目立つようになりました。

米沢藩の上杉治憲が安永4年に男色を衆道と称して、厳重に取り締まりを強化するなど江戸幕府でも江戸幕府でも享保の改革・寛政の改革・天保の改革などによって徹底的な風俗の取り締まりが行われるようになりました。

その一方で、武士道における男色を取り扱った文化本などが新たに出て、同性愛をテーマにした物語が描かれるなどしています。

同性愛は身近にあるものだったのが、江戸時代の中期頃から風向きが変わっているのが分かります。ただし、風俗としての男色は幕末まで絶えることなく続いて、隅田川において若衆と舟遊びする光景が見られました。

また、この頃は相手に愛を疑われたときに、体を張って愛を証明する必要がありました。たとえば、小刀を膝に突き刺して見せて、晩年の伊達政宗もお酒の席において恋人の男性に浮気しているだろうと軽口を聞いたところ激怒されたというエピソードもあります。

自分の潔白を証明するために刀を膝に突き付けてしまうわけですが、この手の自傷系の愛の証明方法は心中立てと呼ばれており、愛の証明のためには死ぬことすら恐れないというスタンスでした。

このような心中事件は一般市民にも及ぶことになり、幕府から心中禁止命令が出されるほどでした。

江戸時代における女性同士の恋愛について

『床の置物』より(菱川師宣 画)

江戸時代までの同性愛について歴史を辿ってきましたが、男性同士の恋愛についてはたくさん情報がありますが、女性同士の恋愛についての情報は多くありません。

しかし、江戸時代においても女性同士の恋愛やレズビアンの文化は存在したと考えるのが妥当で、これについては長らく続いてきた男女への考え方の違いが根本にあります。

江戸時代においては吉原に代表される遊郭や大奥、宮中などがありました。現代においてもドラマやアニメなどで取り上げられることが多いですが、女の園に共通していたのは男子禁制という点でした。

遊郭においては遊女たちが雇い主にとっての売り物や投資の対象であり、大奥や宮中においては将軍や天皇の血筋を絶やさないための血の保存の場所でした。彼女たちの生活につちえは衣食住の点では普通の女性たちの何倍も豪華でしたが、その代償として恋愛や結婚、子供を産んで育てること、健全な性生活などの生き方はできませんでした。

このような場所において同性愛が起こりやすいのは過去の歴史を見ても一目瞭然であり、遊郭や大奥、宮中における女性同士の恋愛も少なくなかったと言われています。

現実においては監視の目をくぐって女性同士でそのような行為をすることは現実的ではなく、その代わりに行われていたのが擬態的な同性愛を思わせるような風習がありました。

宮中の女宮たちに召使いとして仕えていた女性は針女と呼ばれていましたが、彼女は主人である女官を旦那さんと呼んでいます。また、大奥や宮中には部屋子や禿と呼ばれる若くて美しい少女を女性が引き取って育てる風習もありました。

この頃には男性器を模したアダルトグッズを装着している女性の姿を現す作品があり、このようなアイテムがある時点で女性同士の行為があったと考えるのが自然です。女性用のアダルトグッズは海外からの輸入が多く、遊郭や大奥などの女性の一部も所有していたと言われています。

しかし、同性愛に関する作品などは男性のものに対して女性のものは圧倒的に少なく、オープンではありませんでした。この理由の1つとして挙げられるのが、男性がレズビアンに対して興味を持っていなかったことが理由としてあります。

当時は男性社会であったことも理由として大きく、レズビアンであることを主張できる環境や状況でもありませんでした。女性は男性のために尽くすという考えが根底にあったため、男性よりも肩身の狭い思いをしていたことが想像できます。

もちろん、レズビアンの浮世絵や書物が存在しなかったわけではなく、女性同士の恋愛を文献に見るのは鎌倉時代の「我身に宿る姫」と言う作品が初めてと言われています。

一方で男色関係が楽しめる場所として陰間茶屋がありましたが、陰間茶屋にいる男娼と行為をするために通っていた女性もいました。

江戸時代における女性同士の恋愛は、生まれつき女性が好きだった女性もいますが、大奥や遊郭のように男性が少ない場所で育ってきたことがきっかけとなって、同性愛に目覚めるケースも少なくなかったと言えます。

一般社会の同性愛について

『艶色水香亭』より「遠州若狭衆道憐愛の図」(作者不明)

日本統一が近づくにつれて、一般社会には武家の慣習が持ち込まれるようになりました。衆道には商業的な側面がより深くなり、男性による売春では見習い身分の歌舞伎役者が男女両方の客をもてなすようになりました。

多くの男性売春者は若年の歌舞伎役者と同じように人身売買させられた子どもですが、若年の歌舞伎役者が出番のないときに売春を行うケースは少なくなく、現代のメディアによるスターと同様に売春を行うケースはよくありました。

男性客をもてなす男性の売春者というのは若者の年齢に限られており、成人男性は他の男性の性的パートナーとして受け入れられていませんでした。

ちなみに17世紀の間は売春男性とその雇い主は非成人の定義を20代や30代に広げようとしていたので、実際は客が自分よりも高い少年を買うようなケースもありました。

江戸時代の春画3500点の中には女性同士の恋愛に関するものが1%、男性同士の恋愛に関するものが3%ほどあり、性的興奮を掻き立てるために作られた春画や春本においては若い女性だけでなく、少年や女形が多く取り上げられていました。

このような行為をしている作品には贅沢と記されていたように、これらの若い男性の中には男女の両方に対して興味を持っていたと考えられます。純粋な男性同性愛者は女嫌いと呼ばれていましたが、この言葉は男性に対する魅力を選んだ人を指すよりも、女性に対する嫌悪感の意味合いが強くなっています。

また「男色」を行っている男性の中には異性も好きな両性愛者も含まれていたと考えられています。

明治初期

江戸後期から男色に対して厳しい目が向けられるようになったものの、男色行為が禁止されているわけではありませんでした。しかし、明治初期に入ると同性愛者に対する風あたりはより強くなっていきます。

1864年5月20日の近藤勇の書簡には新選組局内で「男色」が流行していると記されていましたが、隅田川においても男色行為をする男性の姿がしきりにみられていました。

明治初期の「男色」は薩摩藩出身者の男色の習慣が有名で現代にも記録が多く残っていますが、明治維新が起こったあたりから、文明開化の影響を受けて同性愛者をソドミーとして罪悪視していたキリスト教社会の価値観や、同性愛者を異常性愛に分類した西欧の文化が入ってきたことによって、同性愛者が異端児扱いを受けるようになりました。

鎖国時代までは堂々と男色行為が行われてきましたが、開国時に日本にどんどん入ってくる外国人に同性愛が避難されたことによって「同性愛=悪」というイメージが次第についていきました。このような流れを受けて同性愛は野蛮で暴力的な行為であると説く教授も現れました。

また、この頃は男色行為自体も衰退していきますが、これは遊郭など一般市民にはなかなか手が出せなかった遊びが売春や娼婦の普及によってお手軽な金額で遊べるようになったことや、農村部に比べて男性の割合が少なかった都市部の女性人口比率の回復によって、女性と性行為できる男性が増えたことも要因として挙げられます。

どんどん同性愛が批判を浴びるようになり、ついに鶏姦罪という条例が発令されてAF(アナルファック)行為が禁止されることになりました。1872年のことですが、違反した者は懲役刑とされましたが、条例が施行されたタイミングにおいては、華族や士族が鶏姦を犯してしまった場合、本人の名誉に関わってくるという理由から罪に問われなかった場合もあります。

また、未遂に終わった場合はAF行為が行われない行為については罪が軽減され、15歳以下については処罰の対象になりませんでした。同性愛が違法行為と国に認められたわけですが、外国のように厳しい罪に問われることはありませんでした。

これはもともと日本という国が同性愛に寛容的な社会を作ってきたことが理由として挙げられますが、欧米文化が入ってきたことによって一定割合の国民が同性愛者に対して嫌悪感を持つようになり、それが罰則を作ることにもつながりました。

ちなみに、鶏姦罪という条例が誕生したのは、南九州において学生同士の男色行為が盛んに行われていたのが理由としてあります。男色行為に励むあまりに勉学に集中しなくなった学生に罰を与えることを目的に作られたものですが、同性愛自体は禁止されたわけではなく事実上はほとんど罰せられる人はいませんでした。

実際に適用された例については刑務所における囚人の鶏姦行為ですが、処罰の対象となるのは鶏姦をされた側であり、いわゆるタチ側については処罰の対象外となっていました。

明治後期

明治20年以降は異性間の恋愛尊重を重視する風潮になった一方で、男性だけの集団生活が増えて、学生寮や刑務所、軍隊などで同性愛行為がありました。明治時代に男色行為が行われていたことは広く知られており、この時代に書かれた作品の中には男色行為がテーマになっている作品も少なくありません。

古川や氏家など従来の研究においては、これら明治期の男子学生の「男色」を、江戸など前近代における武士階級の「男色」の継続として取り扱ってきました。明治時代になると武士階級は消滅しましたが、その男色文化は旧制の中学校や高等学校に引き継がれていきました。

なぜ、学校文化のみに男色文化が受け継がれることになったかについては謎が多い部分になっています。一般的に男性同士のセクシュアリティは野蛮・不道徳・言葉にするのも抵抗があるといった表現がされるようになりましたが、この作用によって「男色」が過去の日本、西南日本、青年の世界に封じ込められるようになりました。

そして、このような男色の周緑化は男色を文明社会から切り離すことになり、男色行為がオープンではなくなっていきました。

同性愛が法律によって禁止されたこともあり、当時の男子学生の一部は「男色」を否定する社会に対し、肯定する声もあれば否定する声もありました。

大人と違って多感な学生の中には同性愛を促すような動きもあり、こうした考えが学生という輪の中で同性愛を肯定するようになったと考えることもできます。また、一部には女性との恋愛によりも、同性同士の恋愛の方が優れていると主張する声もあり、女性に対する風当たりの強さも相まって同性愛に賛同する声が多くありました。

その一方で、明治時代になると女性との恋愛は結婚へと接続するようになり、恋愛が重要視されるようにもなり、男色関係よりも恋愛関係が主流になっていきます。

これまでの異性との関係といえば、遊郭の女性との交流や娼婦との遊びでしたが、女学生との交際や恋愛、結婚に大きくシフトしていったことも重要な要素の一つです。明治時代初期のころは異性との恋愛関係が下に見られていましたが、時代の流れとともにスタンダードになっていきました。

ただし、完全に異性愛がスタンダードになったわけではなく、これまでに築き上げてきた男色文化もすべては消えることなく、一部で存続し続けています。明治時代は異性愛に対する概念が大きく変わり、それが同性愛に対する価値観を変化させた時代ともいえるでしょう。

大正時代~戦前

大正時代に入ると、同性愛が西洋人から非難されたことによって、従来の男色行為はさらに風化することになりましたが、その一方で「男色」は秘密クラブや男娼のように各地で復活していきました。

その一方で、同性愛者たちに圧迫を感じさせていた世の中の風潮は変態性欲論にとどまることなく、日常生活に近いレベルにおいても当事者がカミングアウトをためらうような現代にも似た状況になっていきました。

ハッテン場についても大正まであったとされており、江戸川乱歩の一寸法師においても深夜の浅草公園で行為を行っているゲイをリアルに描いています。大正時代後期になると東京の上野公園あたりに男娼が屯していたことも知られています。

また、映画館も男性同士の出会いの場となっており、組織化されたことによって男色行為が江戸時代のように一部で盛んに行われるようになりました。しかし、江戸時代のように上級庶民が嗜む遊びではなく、人目を忍んで行うのが大きな違いとなっています。

この時期の同性愛者を取り囲む諸言説はネガティブな同性愛イメージとなっていますが、この頃の同性愛者の気持ちとしては、「どうにか同性愛の治療方法を知りたい」というパターンと「この苦しみを他人に理解してもらいたい」というパターンに分かれるようになりました。

同性愛者への同情的なまなざしがこの時代にまったくなかったわけではなく、同性愛者を批判していた人も完全に批判するだけでなく同情にも近い感情を持っていました。

これまでの歴史を見ても分かるように、同性愛は一つの愛の形として漠然と捉えられてきましたが、大正時代に入ってから同性愛の研究が盛んに行われるようになりました。研究が進んだ背景には、明治時代頃から同性愛に対する風当たりが強くなったことや、それによって同性愛であることを打ち明けることができずに悩み抱える人が増えたことが理由としてあります。

戦後直後

明治時代から大正時代にかけて同性愛に対して厳しい目を向ける者が増えたものの、それでも同性愛の文化は完全に途切れることはありませんでした。

大正時代が終わり昭和になり第二次世界大戦が終わると、同性愛に対する世の中の考えは現代に少しずつ近づいていきます。

戦前に引き続いて性を売る同性愛者もいて、東京では戦前に続いて上野公園、大阪においては天王寺公園に近い旭町に男娼が集まるようになり男娼の森と呼ばれていました。上野公園にやってくる客のうち1割は男性目当てで、戦後直後は女装男娼が多く集まりましたが、戦後については女装しない男性が多くを占めるように変わっていきました。

日比谷公園においてもゲイの出会いの場となっていて、毎日のように夜は出会いを求めて多くのゲイが集まっていました。その一方で、ゲイであることを隠して生活する者も多かったことから、ゲイが集まるスポットを狙って恐喝や脅迫などを行う人もいました。

ゲイタウンの発展

戦後は権威の喪失とストリップの流行、言論の自由による性描写の解禁などが起こりました。同性愛もこの流れに乗って一気に発達しましたが、三島由紀夫に代表される同性愛の告白のように著名人が同性愛を告白するケースも増えてきたことで、同性愛が一般的にある恋愛の形として少しずつ認識されるようになります。

そして、戦後はゲイタウンが発展することになりますが、戦後直後は新橋にお店ができたのを皮切りに各繁華街にも数店ずつ点在するようになりました。その中には銀座のブランスウィックや神田のシレーやシルバードラゴンなどもあります。

主なゲイタウン

戦後発展した日本における主なゲイタウンは以下を参照してください。

東京

  • 新宿2丁目・・・2丁目のメインストリートを中心としてゲイバーなどが密集しています。ゲイタウンと言えば新宿2丁目のイメージが定着していますが、新宿3丁目や新宿5丁目などにもゲイのスポットはたくさんあります。2丁目から離れた歌舞伎町や西新宿、北新宿、大久保エリアなどにも比較的広範囲にゲイスポットが存在しています。 
  • 上野・・・上野・浅草エリアは都内では新宿2丁目に次ぐゲイタウンで、男らしい野郎系や年配者、ふくよかな人が多くいるのが特徴です。上野駅の入谷口界隈にゲイタウンがあり、同駅と昭和町通りに挟まされた上野7丁目や東上野3・4・5丁目を中心としたエリアに多くのゲイバーが集中しています。
  • 池袋・・・池袋には西口と東口にゲイバーが集まったエリアがあり、昔は新宿2丁目と浅草に次ぐ第三のゲイタウンと呼ばれたこともありました。東池袋の日照地下映画館はゲイが集まる場所として有名でした。現在は池袋にあるゲイ関連のお店は30店舗ほどですが、ゲイビデオメーカーのオフィスなどもあります。
  • 浅草・・・浅草は東京メトロ/東武浅草駅とつくばエクスプレス浅草駅に挟まれた2丁目や3丁目を中心にゲイバーが集まっています。東京でのサウナの草分け的な浅草大番や24旅館などが有名です。浅草は男色としての歴史が古く、戦前は男色世界の中心でもありました。浅草は一部のゲイから聖地と呼ばれており、新宿に比べるとお店は少ないものの歴史があります。
  • 中野・・・中野は都内の中央専沿線では新宿に次ぐゲイスポットと言われており、新宿がゲイの集まる繁華街なら、中野はゲイのベットタウンのような位置づけとなっています。東京国際レズビアン&ゲイ映画際においては1992年の中野サンプラザでスタートした歴史もあります。

神奈川県

  • 横浜・・・神奈川県のゲイタウンとして有名なのは、横浜市野毛町と宮川町を中心としたエリアで、昔から比較的大きなゲイタウンとして知られています。平戸桜木道路や大岡川に囲まれた歓楽街や野毛坂周辺に多くの同性愛者向けのお店があります。歓楽街にはゲイに関連するお店が約50店舗ほどあります。

大阪

  • 堂山・・・東京のゲイタウンと言えば新宿2丁目ですが、大阪のゲイタウンと言えば堂山を挙げる人が多いです。堂山には多くの同性愛者が集まっており、西日本最大のゲイタウンとなっています。特にバークアベニュー堂山や、そこから北側に伸びているわき道を中心としたエリアにゲイバーをはじめ、ゲイクラブやゲイ雑誌、ゲイビデオなどを売るゲイショップがたくさんあります。
  • ミナミ・・・大阪の北は堂山に対して、ミナミにも大きなゲイスポットがあります。年配者のお店が多く若者の店は少なく、御堂筋と2つの高速道路高架に囲まれたトライアングル地帯の難波4丁目を中心としたエリアにゲイバーが多く集中しています。現代においてはゲイ関連のお店だけで60店舗を超えています。
  • 新世界・・・新世界は大阪の第3のゲイスポットと呼ばれており、通天閣の北側を中心としたエリアにゲイバーが集中しています。難波と新世界は1km程度しか離れておらず、ゲイ関連のお店は30店舗以上となっています。

愛知

  • 栄・・・名古屋の中心繁華街栄もゲイタウンがあり、特に栄駅・栄町駅南東の4丁目あたりに集中しています。名古屋エリアにはゲイ関連のお店が100店舗近くありますが、そのうち半数以上が栄に集中しています。

福岡

  • 博多・・・博多の住吉や春吉などもゲイタウンとして有名で、博多の中心繁華街を南北に流れる那珂川の東の住吉エリアに50店舗、那珂川の西のエリアに35店舗のゲイバーがあります。福岡に拠点を置くゲイビデオメーカーのAXIS PICTURESは福岡にあります。
  • 小倉・・・北九州市の小倉北区の紺屋町もゲイバーが多く集まるスポットであり、ゲイに関するお店が約30店舗ほどあります。ゲイ専門映画館の名画座があるのも小倉です。

沖縄、北海道

  • 那覇・・・那覇市のゆいレール・牧志駅西口にある歓楽街、桜坂にゲイタウンがあります。桜坂は国際通りと平和通りに囲まれた南東のエリアであり、ゲイに関連するお店が全部で30店舗ほどあります。沖縄全体ではゲイに関連するお店は50店舗ほどであり、那覇に集中しているのが分かります。
  • 札幌・・・札幌市の繁華街の“すすきの”の南西にゲイバーが集中しているエリアがあります。すすきの以外には函館市や旭川市などにもゲイバーがあります。

新宿2丁目がゲイタウンとして発展した理由

全国各地にさまざまなゲイスポットが点在していますが、その中でも新宿2丁目は特に知名度が高いゲイスポットになっています。なぜ、新宿2丁目がゲイタウンとしてもっとも栄えることになったのでしょうか?

新宿という場所は、そもそも時の流れから外れてしまったような人が集まっていた場所でした。はみだし者の町としてのイメージが強く、新宿はそのような人たちを受け入れる街として進化しました。

さらに新宿2丁目は立地的にも、ちょうどいい具合に壁に囲われたエリアになっていて、壁が存在したことによって1つの区画としてまとまりやすかったのもゲイタウンとして発展しやすかった理由です。

上野や浅草にもゲイバーはいくつもありますが、新宿のように物理的な壁がなかったことから新宿2丁目のようにゲイタウンとして大きく発展することはありませんでした。

ちなみに新宿2丁目は戦前まで遊郭で、今のようなゲイタウンとは正反対の女性を買う街でした。戦後になって遊郭に空きができて、そこに入り込んだのがゲイバーや男娼ですが、政府が上野公園のハッテン行為を取り締まり、新宿に一定のゲイが流れ込んだこともあってゲイの町として栄えることになりました。

しかし、最初からゲイ中心の街として発展したのではなく、当時は周囲からの嫌がらせも多く、そのような逆境を乗り越えてゲイタウンとしての地位を築いてきた歴史もあります。

また1964年に発刊された「平凡パンチ」にも同性愛に関連する記事が多く書かれ、その数は1965年から1970年にかけて約20本あります。この雑誌は当時の若者にとってのバイブル的な存在でもあり、新宿2丁目にゲイが多く集まることを聞いた若者たちの一部が訪れるようになりました。

1970年~

1970年代に入ると、ゲイ雑誌がより多く発刊されるようになり、以前に比べるとゲイの情報が広まりやすくなりました。同性愛の大衆化やマーケットが進み、ゲイ雑誌にも交際欄やゲイバー、ゲイ施設などの情報が多く掲載されるようになります。

雑誌によって同性愛に関する情報が広まったことによって同性愛に興味を持つ人が増えた一方で、そのような人たちに対して嫌悪感を持つ人も現れるようになります。同性愛を認めようとする人と、同性愛を認めない人との間で摩擦が生まれることになりました。

第一次ゲイリベレーション

1976年11月にゲイ団体の「日本同性愛者解放連合」が結成されて10人近いグループで数年間活動し、1977年3月には「フロントランナーズ」が決済されるなど、同性愛に対する差別や偏見をなくすための団体が生まれます。

どちらの団体も機関紙が発行されるまでには至りませんでしたが、積極的に会合を重ねてメディアや文化人にも活動をどんどんアピールしていきました。

このような流れが生まれたのは、単純に同性愛への差別や偏見に抗おうとする人が増えたのではなく、世界的にゲイ解放運動が行われたことも深く影響しています。

ゲイ解放運動というのは1960年代から1970年代にかけて北アメリカや西ヨーロッパ、オーストラリアやニュージランドなどの同性愛者の間で起こった運動で、同性愛者に対して周囲へのカミングアウトの推奨や、ゲイプライドの概念を通じた一般社会における同性愛に対する恥辱観への反発を行っています。

ゲイ解放運動が行われるきっかけの1つに1969年にニューヨークで発生したストーンウォールの反乱が挙げられますが、ストーンウォールの反乱は当時の新しい運動の幕開けとなる象徴的なイベントとして注目されました。

警察によるゲイバーの家宅捜索に対する反発そのものは以前からあり、1700年代のロンドンにおいて警察官とゲイが対峙するできごともありました。このようなイベントは定期的にあったものの、組織的な運動については19世紀から西ヨーロッパにおいて活発化しています。

もともと同性愛に対する差別や偏見に対する反発心はありましたが、ストーンウォールの反乱をきっかけに行動に移す人や組織が増え、第一次ゲイリベレーションに移行することになりました。

第二次ゲイリベレーション

1980年代中頃から、新しいLGBT団体が生まれます。1984年に発足したIGA日本やIGA日本から独立して発足したOCCURなどが有名です。

IGAは月一回のセミナーや機関誌の発行、エイズ110番の開設をするなど積極的に活動を行っています。IGA日本は国際的なゲイ団体であるIGAの編集長の呼びかけによって生まれたもので、バックボーンがしっかりしていたことで組織が長続きしています。

四谷には活動に賛同している人が気軽に交流できるパブリックスペースもあり、1986年にはIGA日本が「第1回アジアゲイ会議」を主催しています。世界組織の日本支部という立ち位置であることや、ゲイ雑誌という経済基盤があったことなどから、IGAの活動は広く知られるようになります。

1985年には東大阪市長瀬に上方DJクラブが発足して、DJ形式でトークを催すなど、さまざまな催しをカセットテープに収録して、ゲイのアピールやネガティブなイメージを払拭する活動を行っています。

この頃のゲイに関する問題としてエイズの問題がありましたが、IGAのような活動にはエイズ予防や啓発などの意味も含まれていました。

1980年代は世界的にエイズ禍が吹き荒れた時代でもあり、日本では1985年のエイズ患者第1号の登場以来の1年間でゲイの置かれた状況は大きく変わりました。当時はカクテル療法が確立されていなかったこともあり、感染すると必ず死に至る不治の病であり、エイズパニックが起こって社会は騒然としました。

このパニックはエイズが男性同性愛者特有の病気という強い偏見を伴ったものですが、このような偏見が生まれたのは「アメリカの男性同性愛者の中で恐ろしい奇病が起こっている」「同性愛者の5%が陽性」「ゲイの日本人アーティストをエイズ患者第1号にしようとしたこと」などが影響しています。

エイズの治療方法もよく分からないこの頃は、男性同士の握手やコップの回し飲みをするだけでエイズになると言われることもありました。

このような事実はないものの、ゲイにエイズ感染者が多かったのは事実で、ゲイが安心して血液検査を受けられるゲイフレンドリーな病院がゲイ雑誌で紹介されるなど、ゲイのエイズの広がりを防ぐ動きも見られるようになりました。

このように戦後から1960年代にかけては同性愛の新しい文化が少しずつ芽生え、1970年代になってからはゲイリベレーションがはじまり、1980年代にかけてはさまざまなグループが生まれて機関誌も発行されることになりました。

欧米の戦略を取り入れた市民運動の解放運動が一部ではあるものの、地道に実施されたことによって少しずつ同性愛に対する理解が深まっていきます。

1980年代は世界的に見ても同性愛に対する考え方が大きく変容しており、アメリカの民主党が党大会においてアメリカ合衆国の主要政党として初めて同性愛者の権利に関する内容を承認しています。

また、アメリカ合衆国社会党のデヴィット・マックレイノルズがLGBTだと公表している初めてのアメリカ合衆国大統領候補となり、人権運動基金がゲイ・レズビアン・バイセクシャル・トランスジェンダーなどの平等を主張するスティーヴ・エンディアンによって創設されます。

他にもスコットランドや北アイルランドで同性愛を非犯罪化するなど、同性愛に対して厳しい目を向けてきた諸外国の中には同性愛に対して寛容的なスタンスを取るところも増えてきました。

1980年~

1988年にフジテレビ系の「笑っていいとも」で始まり、その後に1年続いた人気コーナー「Mr.レディー & Mr.タモキンの輪」によってニューハーフブームが起こります。新宿2丁目を舞台にした小説の「YES・YES・YES」が文芸賞を受賞して、多くの週刊誌で取り上げられて話題になりました。

それに続いて文藝春秋の雑誌クレアがゲイルネッサンスという医学、社会、文化、芸術、風俗など多岐にわたる47ページのゲイ特集を組んだのをきっかけに、ゲイに関するさまざまな刊行物が発売されるようになります。

テレビの情報番組でも同性愛の特集が組まれる機会が増えて、芸能や教育分野にも同性愛が広く周知されるようになります。

またゲイ雑誌をきっかけに全国的にゲイサークルが多く生まれて、全盛期には10代中心のサークルが20を超えました。サークル自体は長く続くものは少なかったですが、社会人単位から学生単位など、さまざまな年代の人が同性愛サークルに興味を持ったり参加したりしていました。

1990年~

日本においては1990年に起こった府中青年の家事件が同性愛の歴史において一つの転機となります。府中青年の家事件とは、東京都の公共宿泊施設を同性愛者の団体である「働くゲイとレズビアンの会」が利用したことが始まりです。

従来は同性愛者の団体であることを隠して利用していましたが、いつまでも隠して利用するのではなく、オープンにして理解を求めようとしたのが始まりとなっています。

メンバー内でさまざまな議論が噴出して、これまでのように隠して利用を続けるという声もあれば、カミングアウトして変わろうとする声も出てきます。議論を重ねた結果、夜の団体紹介の場所で自分たちが同性愛の人権を考えると団体であることを伝えました。

同性愛であることをカミングアウトしたことによって、他の利用客から「ホモがいた」「あいつらホモなんだぜ」など心ない言葉が浴びせられることになりましたが、団体が誤解を解いてもらうために施設に申し出たところ、次回以降の施設の利用を拒否されてしまうことになりました。

東京都教育委員会が拒否した理由として示したのは、「男女別室ルール」に従うもので、同性愛者が同室で性行為ができてしまうことから、青少年の健全育成にとって悪影響を及ぼす可能性があるというものでした。

そのあとに裁判となりますが、1994年に東京地裁は「性行為を行う具体的な可能性がないと利用は拒否できない」とした上で、団体にはそのような可能性がないとして原告が全面勝訴の判決を出しました。

そこで注目されたのは、同性愛について人間が有している性的指向の一つであり、性的意識が同性に向かうものであるというものです。その観点を指摘した点が大きなポイントになっています。

これだけで話は終わらず、東京都はその後に控訴します。控訴した理由は「90年当時は正確な知識がなく、拒否した判断は仕方なかった」というものです。

これに対して1997年の東京高裁の判決は、原告の全面勝訴を言い渡しただけでなく、「行政当局としては、少数者である同性愛者を視野に入れたきめ細かい配慮が必要で、同性愛者の権利や利益を考えなければならない。そうした点に無関心で知識がないというのは、公権力の行使者として許されることがない」と言い渡されました。

つまり、知らなかったでは許されないということが、この裁判によってオープンになりました。裁判所からの日本に対する厳しいメッセージとも捉えられますが、この裁判をきっかけとなって同性愛に対する理解が求められるようになっていきます。

2000年~

日本での男性同士の性的接触がきっかけとなって起こるHIV感染によるエイズ発症者の増加が顕著となり、異性間同士の性的接触によるHIV感染者が横ばいで推移しているのに対して、男性同士の性的接触によるHIV感染者は右肩上がりになっています。

HIV感染の予防啓発の取り組み強化がNPOの協力によって検討されるのと同時に、各自治体ではHIV陽性者の就業支援のサポートも行われています。

2000年になると同性愛者を狙った新木場殺人事件が起こって、1人が殺害されて被害届が出されたものだけでも数十件に及んでゲイ社会を震撼させました。

このような情勢の中で人権擁護法案が準備されて、人権擁護推進審議会が2001年に出した答申において同性愛者を含めた性的マイノリティについて言及され、これを受けて日本では性的マイノリティの人権救済が明記されることになりました。

これをきっかけに、人権を扱った集会や研修会などにおいて同性愛が抱える問題がクローズアップされるようになります。

2003年には、宮崎県都城市が全国で初めて同性愛者の人権を明記した条例を施行しましたが、同じ年に大阪府議会において日本で初めて同性愛者であることを公表した地方議会議員が当選します。同性愛者の議員を中心として「セクシャルマイノリティ議員連盟」が発足されることになり、連盟にはカミングアウトしていない議員も含めて複数の議員が参加しています。

2003年のレインボーマーチ札幌においては、札幌市長の上田文雄が参加しましたが日本において地方自治体の首長がLGBTのイベントに参加したのは、これが初めてのことでした。

国民の同性愛に対する見方もどんどん肯定的になり、同性愛を認める人は2005年で40%に上っています。同性愛に対する理解は若年層ほど高く、50歳未満で見ると同性愛に対して80%近くの人が肯定的に見ています。

若年層で同性愛に対する理解が深まった理由として考えられるのは、2000年代になって女装やおねえであることをカミングアウトするテレビタレントが多くなり、地上波の娯楽番組にも同性愛者が出演したことも理由としてあります。

また2000年代になるとインターネットが急速に普及して、誰でも簡単に情報が得られるようになりました。同性愛者が身近に自分と同じような人がおらず、そうした状況が孤独感を強めていましたが、インターネットを通じて同じような立場の人と簡単に交流ができるようになりました。

一方で、昨今の「おねえブーム」によって新宿2丁目が観光地として取材される機会が多くなりましたが、同性愛者の街というイメージが定着したことによって異性愛者が訪れににくくなっているなどの弊害も生まれています。

2010年~

2010年以降は、世界的に同性愛が生きやすい社会になるようにさまざまな取り組みを行うようになります。同性婚法や差別禁止法などが次々と成立して、人権が尊重されるようになりました。

2011年には国連人権理事会でLGBTの権利に関する決議が採択されて、日本も賛成しました。2013年には国連でLGBTの人権に関する官僚級会議が開催されて日本も参加しています。差別こそが違法という時代になり、以前に比べると同性愛者が生きやすい社会になりつつあります。

2015年4月には、東京都の渋谷区で同性愛者をパートナーとして認める条例が新しく生まれて全国で初めて施行されました。同性愛者をパートナーとして認める国はヨーロッパに多く、珍しいものではないですが、日本において同性愛者をパートナーとして自治体が認めたのは画期的でした。

同性愛者に対する支援は自治体単位で行われており、現在もどんどん同性同士のパートナーを認める動きが強まっています。ただし、異性との結婚とは違って法的な強制力はなく、手術の同意や保険受取人、アパートへの入居、相続や保険受取など、基本的な生活の水準で関係が認知されるかどうかが課題の1つになっています。

現在の課題

今の日本は同性愛者を迫害してないと言われるように、同性愛者というだけで法律によって罰せられることはありません。他の国に比べても、「男色」が当たり前だった歴史があるように、どちらかというと同性愛者に対しては寛容な国です。

しかし、同性愛者やトランスジェンダーの子どもたちが学校でいじめられて、自殺を図っているケースは少なくありません。公には同性愛に対する差別的な発言は許されなくなっているものの、依然として「無知」と「偏見」による差別意識は根深いものがあります。

また、同性カップルやそこで育てられる子どもたちは、結婚した家族に与えられる法的保護や社会保険の適用外であるなど、同性愛カップルが生きやすい成熟した社会ができているとは言えません。

パートナーや子どもが病気になっても介護休暇を取得することができず、家族として健康保険もカバーされません。長年助け合ってきたパートナーに先立たれてしまっても、死亡退職金は給付されないなどの問題点もあります。

結婚という人間や社会にとってもっとも大切な法制度から同性愛者を排除している現状こそ、同性愛者に対する差別であると言えるでしょう。法律自体が不平等を認めてしまっている現状においては、同性愛者に対する社会的な差別や偏見をなくすことは不可能です。

しかしながら、自治体における同性パートナーシップや企業によるLGBT支援の動き、同性パートナーを含めた福利厚生など、各自治体や企業の中には同性カップルが生きやすい社会を作る動きも出ています。

同性愛が自然な事であると歴史を通して理解できる

同性愛になる原因として、脳の機能や環境ホルモン説などがありますが、いずれも仮説であって同性愛のメカニズムは完全に解明されているわけではありません。

脳の機能については、同性愛など人間の性的な傾向は自律神経をつかさどる脳の機能に規定されている可能性が有力となっているという説でスウェーデンの研究が有名です。

環境ホルモン説は、人工的な化学物質が人間や動物の同性愛に影響しているというもので、農薬汚染や肥料汚染された食品、化粧品やせっけん、ペンキなどの工業品を通じて同性愛傾向が高くなるというものです。

これには遺伝子の持つ免疫力の高さに応じて個人差が出ますが、この仮説に対する確実なデータがあるわけではありません。現代社会において、これらの製品によって何らかの影響を受けた形跡がない同性愛者がほとんどであるため、この説の信ぴょう性はかなり低くなっています。

そして、昨今、世界的な大ベストセラーになった「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、同性愛が不自然な事であるという理論は、キリスト教から生まれたもので、そもそも人が描いたストーリーであり、生物や科学研究の観点から「同性愛は自然な事である」と世界に伝えています。様々な叡智の観点から物事を考察している彼の動画をぜひご覧下さい。

つまり、彼の話に基づくのであれば、自然な行為である同性愛のメカニズムを解明しようとする行為事態が、不自然な事だと言えるのかもしれません。

世界的に変わりつつある同性愛

世界初の同性パートナーシップが誕生したのは、1989年のデンマークで2001年にはオランダが同性婚を世界で初めて公式に認めました。

今日までに同性婚や同性婚に相当する同性パートナーシップなどの制度を法制化した国は、ブラジルや南アフリカなども含めて47カ国に上っています。多くの国で同性愛が基本的な人権として認められています。

現在は情報化社会になったことで同性愛に対するさまざまな情報が得られるようになり、同性愛者同士が簡単にコミュニケーションを取れる社会に変容しました。

日本の同性愛の歴史を見ても分かるように、同性愛は当たり前に行われる自然な行為だったにも関わらず、西洋の文化や宗教が入ってきたことにより、その概念を変化させて「悪」や「差別」の対象になったこと、また同性愛者が自由に恋愛して社会生活できる社会に変わってきたのは、同性愛者が声を挙げてきたことが大きい要因であった事がわかります。

同性愛の歴史を学ぶことで、どのように社会が変わってきたかを学ぶことができます。今後、どのように変わっていくべきか、どんな社会になっていくのが望ましいか、など新しい課題も見えてくるでしょう。